農家ゲルトの窒素枠はどこへ消えたのか——廃業を強いられた酪農家の問い
南ホラント州の自然再生事業が飲み込んだ、ある家族農場の終焉
南ホラント州の広大な牧草地に、何世代にもわたって根を張ってきた酪農家がいる。農家のゲルトさんは、祖父や父が切り拓いてきた土地で牛を育て、その営みを次の世代へとつなぐつもりだった。しかし州の自然再生事業が、その未来を断ち切った。牧草地を明け渡すよう求められ、廃業という決断を迫られたのだ。
乳牛を売る日
断腸の思いで乳牛を売却する日がやってきた。長年、朝夕の搾乳を共にしてきた牛たちとの別れは、単なる経営判断ではなく、家族の歴史との決別でもあった。農場の門を閉じたゲルトさんが今も納得できないのは、廃業そのものよりも、その後に生じた疑問だ。自分に割り当てられていた窒素排出枠は、いったいどこへ消えたのか。
オランダでは、農家ごとに窒素化合物の排出量に上限が設定されている。牧草地を手放し、牛を売却すれば、その枠は返上されるか、再配分されるか、あるいは別の形で活用されるはずだ。ゲルトさんはこの点を問い続けてきた。自分が廃業することで生まれた「余剰枠」が、どの農家に、あるいはどの事業に流れたのかが、一切見えてこないというのだ。
窒素問題が農家の生活を変える
オランダの窒素問題は、すでに10年以上にわたって政治と社会を揺さぶってきた。自然保護区周辺での窒素沈着が法定基準を超えているとして、農業・建設・交通など複数の産業が排出削減を求められている。とりわけ畜産農家への影響は深刻で、廃業支援を受けて農場を閉じるケースが全国で相次いでいる。
南ホラント州がゲルトさんの土地を必要としたのも、こうした自然再生の文脈においてだ。湿地や草原を復元し、生物多様性を回復させるという大義のもと、農地が次々と自然地へと転換されている。しかしその過程で、個々の農家が保有していた排出枠の行方が不透明なまま処理されているとの指摘は少なくない。AD紙の記者アンジェリーク・クンストがゲルトさんの問いを出発点に、排出枠の追跡調査に乗り出したのも、この不透明さへの問題意識からだ。
制度の隙間に落ちる「問い」
在蘭日本人にとって、窒素問題は農業政策の話として遠く感じられるかもしれない。しかし、この問題は土地利用・住宅建設・インフラ整備にも直接影響しており、新規住宅の建設許可が窒素排出規制によって遅延するケースは都市部でも報告されている。農家の廃業と排出枠の再配分という問題は、オランダ社会全体の資源配分と透明性をめぐる議論とつながっている。
ゲルトさんの問いに対する明確な答えはまだ出ていない。しかしその問いそのものが、制度設計の不透明さを照らし出している。何世代もかけて築いた農場を手放した人間が、自分の「排出枠」の行方すら知らされないとすれば、それは単なる行政上の不備ではなく、政策への信頼そのものを損なう問題だといえる。
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