黄金時代の格差は「富の集中」ではなかった——17世紀オランダ土地研究の新知見
ユトレヒト大学の博士論文が問い直す「経済成長=格差拡大」の通説
「経済が成長すれば格差も拡大する」——現代の経済論争でも繰り返されるこの命題に、17世紀オランダの農村から異議が突きつけられた。ユトレヒト大学のBram Hilkens氏が今春発表した博士論文が、研究者の間で静かな注目を集めている。題材はホラント州の農村における土地の分配。扱う時代は1543年から1708年と遠くとも、問いかけは現代と地続きだ。
「モルヘン帳」が拓いた研究の地平
Hilkens氏がもともと取り組んでいたのは、疫病が財産の再分配に与える影響という別テーマだった。史料を探す過程で偶然出会ったのが、「モルヘン帳(morgenboeken)」と呼ばれる土地登記簿だ。ライン高水局(Rijnland)が閏年ごとに作成したこの帳簿には、誰がどれだけの土地を所有しているかが課税目的で精密に記録されており、長期的な格差の変遷を追うのに格好の史料となった。「この記録を使えば、オランダ史上の重要な時期における農村の土地格差の変化を明らかにできると思った」とHilkens氏は振り返る。
研究対象として選んだのは、Rijnland管内のHazerswoude、Warmond、Koudekerkという3村。ライデン近郊の農村人口の約10%に相当するこれらの村は、泥炭採掘が盛んな地域、酪農中心の地域など性格が異なり、かつ都市との経済的結びつきが強かった。分析の軸に据えたのはジニ係数だ。ジニ係数が0なら完全平等、1なら一人が全土地を独占する状態を指し、この数値を時系列で追うことで格差の変化を定量的に把握した。
成長期の格差は「豊かさの裾野拡大」だった
調査の結果、経済が拡大した17世紀前半においても停滞した後半においても、ジニ係数は上昇し続けていた。しかし、その中身はまったく異なるものだった。
経済停滞期には、大地主が土地を買い増すことで格差が広がるという、いわば「教科書的」な富の集中が起きていた。一方、経済成長期における格差拡大の主因は、農村人口の増加と移民の流入により、小規模地主の数が急増したことにあった。大地主の土地シェアはむしろ低下し、小さな土地を手に入れる人々が一気に増えた結果として、分布の不均等を示すジニ係数が上がったのだ。
従来の研究では、ユトレヒト大学名誉教授のJan Luiten van Zanden氏が1561年と1732年のデータをもとに「黄金時代に格差は拡大した」と論じており、その見方が定説となっていた。しかしHilkens氏の研究は、その「黄金時代の中身」を初めて精細に描き出し、成長期と停滞期とでは格差の質がまったく異なることを示した。「格差が拡大したとは言えるが、その見方には一定の穏やかさが必要だ」とHilkens氏は語る。
現代の格差論争への示唆
アメリカのテック億万長者が資産を雪だるま式に膨らませる今日の状況と、17世紀オランダの農民が小さな土地を手に入れる状況は、ジニ係数が上昇するという点では同じに見えても、社会的な意味はまるで異なる。Hilkens氏の研究が示すのは、格差を測る数値だけでなく、その背景にある構造を問わなければ現実を見誤るという警告でもある。
オランダに暮らす日本人にとっても、この問いは遠くない。移民が多く、経済的な流動性が高い現代のオランダ社会でも、格差の「数字」と「実態」をどう読み解くかは常に問われ続けている。17世紀の農村台帳から始まった一人の研究者の問いは、現代の格差論争に対しても静かに、しかし確かな問いかけを続けている。
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情報源: NRC


